松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

    

「そう考えると楽ですね-松下幸之助との日々」岩井 虔、PHP研究所

そう考えると楽ですね―松下幸之助との日々
岩井 虔
PHP研究所 (2006/04)
売り上げランキング: 200177

【私の評価】★★★★☆

■著者紹介・・・岩井 虔(いわい けん)

 1936年生まれ。1958年松下電器入社。
 1961年PHP研究所へ出向し、研究、編集、国際、研修部門を担当。
 1992年専務取締役・研修局長を経て、1997年顧問、現在、参与。


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●松下幸之助はどのような人であったかというと、
 本当は気が弱く、神経質な人間であったと思います。

 しかし、そのような人間がどうして経営の神さまと呼ばれ、
 松下電器という巨大国際企業を作り上げることができたかといえば、

 松下電器という企業の使命に対する「思い」であり、
 そして、社主である自分の「信念」であったのではないでしょうか。


●従業員と話をするときも、
 従業員を知ろうとする、従業員から何かを得ようとする。

 細やかで神経質である性格を、
 うまく転換していたように感じます。

 ・「君、家族は何人や?ご両親は顕在か」・・・
  「そうか、そうか。君はなんでこの松下に入ってくれたんや?」
  「君、松下で何をやりたいと思ってるんや?今の仕事楽しいか。
  これからの夢あるんか・・・(p16)


●ときおり部下が失神するほど
 叱責することがあります。

 しかし、気が弱い松下をそのようにさせていたのは、
 社主としての自分の立場、その人を育てたいという
 激烈な思いだったようです。

 これは社員を思う気持ちというよりも、
 自分の子どもを思う気持ちに近いものでしょう。

 ・部下指導は真心をもって行うべきものにして、単なる御機嫌とり
  政策の如き浅薄あるべからず、宜しく言うべきは言い、糾すべきは
  糾し、真の向上のために鞭打つの誠意をもって行うべし
  「社員指導及び各自の心得」(p61)


●そして、松下自身、「経営」つまり組織をあるべき
 方向に導いていくことに面白みを感じており、
 常に経営のあり方というものを考えていたようです。

 ・「じゃあ君は、一家の主人やな」「はい、そうです」
  「主人といえば、家庭の経営者やな。経営者なら、夢を語り、
  方針を示さないかんと思うんやが、君は奥さんやお子さんに、
  “五年後の岩井家、十年後の岩井家をこうしよう”ということを
  ちゃんと言うて、協力を求めているんやろうな」(p70)


●松下幸之助関係の本を読んでいるといつも姿勢が良くなります。
 腰が立ち、胸を張っている自分がいます。

 自分の姿勢を正してくれる良書として
 ★4つとしました。


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■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・塾生の一人が質問をしました
  「なんでリーダーと掃除が関係あるんですか」
  その質問に対し、松下は、
  「自分の身をきれいにできない者が、なぜ社会をきれいにできるのか」
  と答えたそうです。(p21)


 ・松下幸之助自身、晩年の幹部研修会などで、
  「部下の良さ、偉さがわかるか」
  「出ばなをくじくな」
  「拝む心を持て」などと、繰り返し指導していました。(p48)


 ・できるだけ質問を受けることにしていたんや・・・
  「そんな時、パッと手を挙げる従業員の名前を覚えておく」
  「覚えてどうなさるんですか」
  「昇格や」
  「えっ・・・(p85)


 ・「君、100のうち三つできたらどう思う?」・・・
  私は、「・・・100のうち三つしか成功しないのであれば、
  やめたほうがいいと思います。」・・・
  「わしは、違うなあ。100のうち三つできたら、
  勇気がでてくるんや」(p157)


▼引用は、この本からです。
そう考えると楽ですね-松下幸之助との日々」岩井 虔、PHP研究所
(2006/04)¥1,260【私の評価】★★★★☆

     

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。